大槻玄沢埋葬の地
- 所在地
- 高輪3‐16‐16
- 所有者
- 宗教法人東禅寺
- 概要
- 旧跡 昭和58.10.18指定
- 公開状況
- 非公開
大槻玄沢〈おおつきげんたく〉は、江戸時代中期の蘭学者であり、わが国最初の蘭学塾を開くとともに、多数の著・訳書を著わし、日本の蘭学の発展に多大な足跡を残した人物です。文政10年(1827)3月20日、71歳でその生涯を閉じ、高輪東禅寺に葬られました。なお現在の墓は、墓地内の所々にあった大槻家の墓を、明治年間になって一か所に集めたものであり、玄沢の墓の周りには、妻や子の玄幹〈げんかん〉(蘭方医)・盤渓〈ばんけい〉(儒者・砲術家)、孫の文彦(国語学者)など大槻家代々の墓が並んでいます。
大槻茂質〈しげかた〉、号盤水(玄沢は通称)は、宝暦7年(1757)9月28日、陸奥国磐井郡中里(現在の岩手県一関市)に生まれました。大槻家は代々医者の家柄であり、父は一関藩医でした。13歳の時から医学を学び、安永7年(1778)江戸に出て、杉田玄白に師事し、オランダ医学の研究を始め、前野良沢についてオランダ語を学び、天明5年(1785)には長崎に遊学してさらにオランダ語の学識を深めました。
玄沢は蘭学の普及にも熱心であり、天明6年に仙台藩医員となって江戸京橋に移り住むと、ここに日本最初の蘭学塾である「芝蘭堂〈しらんどう〉」を開きました。橋本宗吉・稲村三伯・宇田川玄真ら多くの蘭学者を育てるとともに、天明8年には、オランダ語の初学者のための手引書である『蘭学階梯』を刊行しました。
玄沢は、師杉田玄白のあとを継いで蘭学書の翻訳を続け、寛政10年には、玄白の命により『解体新書』の重訂をほぼ完成し、後に『重訂解体新書』として出版されましたが、単なる原著の翻訳ではなく、多くの蘭学書を読み、それらをまとめたものであり、玄沢の深い学識を示すとともに、江戸時代の解剖学書として重要なものの一つです。
蘭学の先駆者である杉田玄白・前野良沢らの跡を継ぎ、日本の蘭学を隆盛に導いた功績は非常に大きなものです。