『芝新銭座町御高札物揚場諸事記録』
- 所在地
- 白金台4-6-2
- 所有者
- 港区教育委員会
- 概要
- 1冊 古記録 平成9. 10.14指定
- 法量
- 縦24cm 横16.5cm 総丁数98丁(他に挿入分5丁)
芝新銭座町(現在の港区浜松町1丁目・海岸1丁目の一部)にあった高札および物揚場の沿革・移転に関する記録や近辺の治安維持などに関する書付を、町名主「益田玄関〈げんせき〉」が書き写したもので、天明3年(1783)から嘉永2年(1849)までの67年間にわたる記録です。
本記録の巻頭は、天明4年芝新銭座町持物揚場が幕府御用地となったことによる物揚場および同地に敷設していた高札の移転に関する史料です。この高札は、正徳元年(1711)7月17日に設置されたもので、当時の文言は不詳ですが、享保15年(1730)に建替えられた際のものは「ちりあくた」廃棄に関するもので、「江戸市中ちりあくた捨船深川越中島渡 芥捨場江遣し捨へし 若中途に捨るにおゐてハ 曲事たるへき者也」というものでした。この高札は翌年焼失したため同18年には、堀へ塵芥を捨てないように、荷揚を迅速にするように、塵芥は深川越中島へ捨てるようにと記したものが新たに立てられました。この文言が嘉永2年までは続いていたようです。
物揚場及び高札の移転は、天明4年7月6日に執行され、移転した物揚場は、長さ15間・幅5間の地面でした。芝新銭座町の物揚場は、「惣揚ヶ場」と称されており、「武家寺社方并町方荷物揚ヶ候様」と記されていることから、使用者が限定されたものではありませんでした。また、揚場前の堀が埋まった場合の浚い揚げやその他の異変が起こった場合の取り扱いなど、新銭座町の町人が請け負っていたことが記されており、彼らが町役として負担をしていたことがわかります。
芝新銭座町の高札に関する史料は、『旧幕府引継書』中の「天保撰要類集」や「市中取締類集」にも含まれていますが、本記録と重複するものはわずかに3件のみで、これら3つの記録と合わせることにより、天明3年(1783)から嘉永2年までの67年間にわたる芝新銭座町の物揚場や高札等に関する記録が網羅されます。江戸の個別の町に関する史料が非常に少ない中で、近世江戸の町に関する史料として、大変貴重なものといえます。