大田蜀山人筆 狂歌屏風・漢詩屏風
- 所在地
- 高輪2‐11‐1
- 所有者
- 宗教法人泉岳寺
- 概要
- 六曲一双 書跡 平成9.10.14指定
- 法量
- (狂歌屏風)屏風外寸 縦172.3cm 横393.0cm 本紙寸法 縦125.6cm 横48.0cm (漢詩屏風)屏風外寸 縦173.1cm 横391.8cm 本紙寸法 縦125.4cm 横47.8cm
- 公開状況
- 非公開
- 写真タイトル
- 狂歌屏風(左) 漢詩屏風(右)
近世初頭まで連歌師や俳人の余技に過ぎなかった狂歌は、江戸時代中期以降川柳と並んで隆盛を迎えます。
大田南畝〈なんぽ〉(蜀山人〈しょくさんじん〉、また四方赤良〈よものあから〉、杏花園〈きょうかえん〉ともいう)は、寛延2年(1749)に江戸で御家人の家に生まれ、17歳から幕府に仕えました。少年時代より学問に精進し、とりわけ漢学を諸家について学び、青年時代にはその漢詩文によって知られる存在となります。一方、市井にあって優れた狂歌、漢詩文を作り、戯作者としても活躍しました。文政6年(1823)に75歳でその生涯を閉じました。
狂歌の作者としては、天明年間(1781-89)頃からその名声は一段と高く、『徳和歌後万載集』をはじめ、多くの著編書を刊行しました。この屏風にある狂歌六首中の第五「やよ達磨……」を除く五首は、晩年に版行された『蜀山人自筆百組狂歌』に集録されています。
この屏風の泉岳寺伝来の歴史は定かではありませんが、蜀山人の自筆の作品としてその筆蹟は優れ、また保存状態も良好です。しかも彼の代表的狂歌・漢詩が記されている佳品といえます。